ランダムネスチャレンジの回数だけが成功のファンダメンタルである

Decrypt history, Encrypt future™

ランダムネスチャレンジの回数だけが成功のファンダメンタルである

人間社会は想像以上にバイナリの厳密なコードで動いている。どんな天才もこの世の中の厳密性をかいくぐって1発で思い通りのことを実現することなどできない。文字が一つ違うだけで永遠に辿り着けない、近似を許さない離散空間が現実である。

成功の秘訣は簡単なことを人よりも10倍、100倍の数、10倍、100倍の長さ続け、経路を確定させるだけなのだが、意外とこれは精神的、肉体的なストレスを引き起こす。他の人と違うことを続けられる人はいても他の人と同じことをただひたすら打ち込み続けるということができる人は稀有である。成功には実は賢さがほとんどいらず、単なる試行回数なのであるが、迷い、悩み、感情の揺れ動きという確率に誇りを感じてしまうのが人間というチューリングマシンのバグである。そして逃避、傲慢は最も重要な試行錯誤の回数というファンダメンタルにもやをかける。

突出した成果を出す人は、はじめは常に周りから見れば何をしているかわからない愚か者であるが、時間が経つと愚か者がはるかに多くのランダムネスチャレンジをして、気がつけば遠く離れたところにいるのを見つけた時、周囲はなにか特別な才能があったのではないかと邪推するのだが、実は誰もがやりたがらないことを文句も言わずにひたすらやり続けているだけなのだ。

突出した成果を出した人を見て、周囲が「あの人には特別な才能があったんだ」と片付けたがるのは単なる防衛反応である。

誰もができることだが、誰もがやりたがらない単純な試行回数から逃げ、迷いや傲慢というバグに甘んじていただけだという残酷な事実を突きつけられてしまうと人は逃避か闘争どちらかを選ぶしかない。他人の成功を才能や奇跡に仕立て上げることは、試行回数の少なさを正当化するための防衛システム(エスケープシーケンス)だろう。

誰でもできることをひたすら続けることは自分が凡庸な交換可能パーツに思えてくる。

人間は誰もが自分は特別な存在だと思いたい欲求を持っているはずだ。それが存在の排他性の根拠だからである。しかし、「毎日文章を編集して決まった時間に上げる」「毎日決まったコードを書く」といった作業を繰り返していると、自分がまるでただの歯車、単純なループ命令を処理するだけの関数になったかのような錯覚に陥る。これは知的エリートほど早く脱落するゲームである。

「もっと効率的な方法があるはずだ」「こんなの自分がやる仕事じゃない」と、ランダムネスチャレンジの回数を稼ぐ前に、別の「もっとスマートに見える経路」を探して逃げ出したくなる。「凡庸な作業を黙々と続けている自分の姿」は恐怖であり、耐え難い屈辱なのは人類共通の恐怖なのではないか。出口の見えない単純作業に時間を費やすのは飢餓の危険があるアクションである。

回数をこなしていれば運は一定の確率で起こる。決定論的に運の確率を格納するという発想に到達することすら、結局は試行回数の産物である。

戦略も、環境も、最初から正解が与えられているわけではない。試行回数を積み上げる中で、失敗する経路が削られ、結果として「戦略」と呼ばれる形に収束していく。

つまり、成功とは偶然を待つことではない。一度しかない人生という制約条件を運命として受け入れ、できることをひたすらやり続ける。確率空間に、決定論的にアクセスし続けることである。運とは外部から降ってくるものではなく、圧倒的な試行回数によって内部に格納されていく確率分布なのである。

この離散空間の仕組みを完全に理解し、脳の鳴らす恐怖のアラートを「これはハードウェアの仕様(バグ)だな」と客観的にエラーハンドリングできる一握りの“凡人”だけが、気がつけば周囲の追随を許さない遥か遠くの目的地へ到達するのである。

つまり、自分が特別だと思っているうちは突出した成果は作れず、凡人、凡庸さ、無力さを深く理解し、無力ながらにやるしかない、嫌でも面倒くさくても続けるしかない、単なる回数であると、これ以上割り切れないところまで、割り切ることができるかどうかという因数分解、これ以上割り切れない最小単位を受け入れる素数論なのである。

自分が無力な凡人であると骨の髄まで理解したとき、初めて感情が乗らない、ただの1回のカウントを淡々と積み上げられるようになる。これは味のないパスタのようであり、あらゆる味がするパスタでもある。割り切れないプライドを抱えたままでは、この素数の領域、単なる回数の積み上げにカウントできない。回数を重ねるということは目の前の小さなことに向き合い、ひとつずつ、今日終わらせるということなのである。

この無味乾燥な反復運動はそれ自体が存在そのものであるこれ以上圧縮できない最小暗号長であり、存在それ自体が最小表現になる。

どんなにすごい人間も、地球の隅々にすらいくことはてきないし、ましてや宇宙のこともわからないまま死んでいく。仮にどんな知能があったとしても宇宙そのものの記号長を超えない限り宇宙のことを知ることはできない。知ったつもりにはなれても知ることは物理的に論理的に計算機的に不可能である。しかしながら唯一の救いは、行動というプロンプトがどう返ってくるかを無味のまま体験するのは宇宙の全容がわからなくても宇宙と対話することでその反応を知ることができるアーサーマーリンである。