メンデレーエフの元素周期律から量子模型の確立に至る学術史

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メンデレーエフの元素周期律から量子模型の確立に至る学術史

1. 序論:経験的な周期表から、量子力学へ

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、物質の見方は一変した。出発点は1869年のメンデレーエフの周期表である。原子の中身も、それを支配する力学も未知のまま、原子量と化学的性質に繰り返しが現れることに気づき、観察された規則を表にまとめた。

当時は、なぜ周期が現れるのか、なぜ価数はあの値なのか、原子量はなぜあの値なのかに答える理論がなかった。メンデレーエフも機構までは踏み込めず、測定された量のあいだの関係として空席を予言した。

そこから1930年代はじめに至るおよそ60年で、次のことが順に分かってきた。ここでは周期表の話を先に進め、その後で、軌道の絵に頼らない量子力学へ移る。

  1. 電子、原子核、原子番号が見つかり、原子はそれ以上割れない球ではなくなった。
  2. プランクがエネルギー量子 \(h\) を導入し、アインシュタインが光量子を提案した。
  3. ボーアが定常状態と量子条件を仮定し、水素のスペクトルを導いた。
  4. フランク=ヘルツの実験、モーズリーの法則、コンプトン効果が、離散的なエネルギーと光の粒子性を測定で押さえた。
  5. パウリの排他律が、殻に入る電子の数を量子数から与えた。
  6. ド・ブロイ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、ボルンが、行列力学、波動力学、確率解釈を整えた。ハイゼンベルクは不確定性関係を論じた。
  7. デイヴィソン=ガーマーと G. P. トムソンが、電子の回折を見た。
  8. ディラック方程式がスピンと負エネルギー解を与え、陽電子の発見がそれに続いた。

2. 経験則としての周期表(1869年–1890年代)

2.1 メンデレーエフの周期律(1869年)

1869年3月、ロシア化学会で論文「元素の性質と原子量の関係」が読み上げられた。メンデレーエフは出張中で、原稿を読んだのはメンシュトキンである。既知の63元素を原子量の順に並べると、酸素や水素との結合の仕方に似た性質が、一定の間隔で戻ってきた。

同時代にはマイヤーやニューランズも、元素を並べると性質が繰り返すことを見ていた。メンデレーエフが先へ進んだのは、原子量の順に合わない箇所を無理に埋めず、空席を残して未知元素の性質を予言したところにある。

テルルの原子量は当時およそ128、ヨウ素はおよそ127だった。原子量の順に置くと、化学的な族が崩れる。メンデレーエフは原子量の測定を疑い、周期の方を優先してテルルを前、ヨウ素を後に置いた。この判断は測定ミスでは終わらなかった。テルルの平均原子量は今もヨウ素より大きい。

空席については、上下左右の元素から値を内挿して、未発見元素の性質を具体的に書いた。1871年の予言と、その後の発見は次のとおりである。

予言された仮称 予言 発見された元素 発見 予言と実測
エカアルミニウム 1871年 ガリウム 1875年、ボアボードラン 原子量 約68 / 69.7。比重 5.9 / 5.94(発見当時の測定)
エカホウ素 1871年 スカンジウム 1879年、ニルソン 酸化物 \(\mathrm{Eb_2O_3}\) / \(\mathrm{Sc_2O_3}\)。酸化物の比重 3.5 / 3.86
エカケイ素 1871年 ゲルマニウム 1886年、ウィンクラー 比重 5.5 / 約5.47。四塩化物の沸点 約90°C / 約86°C

スカンジウムの 3.5 と 3.86 は金属の比重ではない。予言も実測も酸化物の値である。ゲルマニウムの比重は、発見当時の対照で約5.47だった。金属ゲルマニウムの今日の密度は約5.32である。四塩化物の沸点について、メンデレーエフの詳しい予言は約90°Cで、これは100°Cを下回る。実測は約86°Cである。

これで周期表は化学の実用に耐える表になった。それでも、原子量という質量の順に性質が周期になる理由も、周期の長さが 2、8、8、18 と不揃いな理由も、物理学はまだ説明できないままだった。

2.2 電子の発見(1897年)

ドルトン以来、原子はそれ以上割れない単位として扱われてきた。19世紀末の放電管の実験が、その前提を崩した。

1897年、J. J. トムソンは陰極線を電場と磁場で曲げ、比電荷 \(e/m\) を測った。値は、電気分解で得られる水素イオンのおよそ千倍だった。電荷の大きさが同程度なら、質量は水素原子の千分の一程度になる。トムソンは、この負の粒子がさまざまな原子に共通の成分だと考え、微粒子(corpuscle)と呼んだ。のちの電子である。陽子と電子の質量比として今日使われる数は約1836である。

1904年、トムソンは原子全体の電気的中性を説明する模型を出した。正電荷が一様に広がった球の中に、電子が点在する。ブドウパン模型と呼ばれる。

3. 原子核と原子番号(1900年–1913年)

3.1 プランクのエネルギー量子(1900年)

黒体放射のスペクトルは、温度が決まれば波長分布も決まる。短波長側はウィーンの式がよく合い、長波長側では合わなかった。1900年、プランクは両方につながる内挿式を提案し、同年12月、その式を統計から導くために、空洞壁の振動子のエネルギーが連続ではなく

\[E = nh\nu \qquad (n = 0, 1, 2, \ldots)\]

という飛び飛びの値だけをとると仮定した。\(h\) がプランク定数、\(\nu\) が振動数である。プランク自身は、これをまずは計算上の仮定と見ていた。

後の教科書は、この一歩を「紫外破綻の解決」と書くことが多い。その語は1911年にエーレンフェストが使ったもので、レイリー=ジーンズの式が短波長でエネルギーを無限大にしてしまう、という困難がはっきり意識されたのも1905年以降である。1900年のプランクが直接合わせていたのは、長波長でウィーンの式が実験から外れる、というスペクトルの形だった。

3.2 光量子(1905年)

アインシュタインは、プランクのエネルギー量子を光そのものへ移した。光電効果では、光を強くすると飛び出す電子の数が増え、光の振動数が電子の最大の運動エネルギーを決める。レーナルトらの測定はそうなっていた。アインシュタインは、光がエネルギー

\[E = h\nu\]

の塊、光量子として吸収されると考えればこの規則が説明できる、と1905年に書いた。光は連続な波であると同時に、エネルギーの粒としても振る舞う、という提案である。

3.3 ラザフォードの有核原子(1909年–1911年)

マンチェスターでラザフォード、ガイガー、マースデンは、\(\alpha\) 粒子を薄い金属に当て、大きく向きを変えるものがあるかを調べた。1909年の報告では、白金の板に入射した \(\alpha\) 粒子のおよそ8000個に1個が、入ってきた側へ戻った。1910年の記述では、金でも同程度である。正電荷が原子いっぱいに薄く広がっているなら、\(\alpha\) 粒子はこのようには曲がらない。

ラザフォードは1911年、質量のほとんどと正電荷のすべてが、半径 \(10^{-14}\,\mathrm{m}\) 程度の中心に集中し、その外の \(10^{-10}\,\mathrm{m}\) 程度の領域を電子が回っている、という模型を出した。中心の寸法は、その時点では上限に近い見積もりである。

この模型は、古典電磁気学と両立しない。加速度運動する電荷は電磁波を出し、エネルギーを失う。放射の仕事率はラーモアの公式

\[P = \frac{e^2 a^2}{6\pi\varepsilon_0 c^3}\]

で与えられる。水素原子にこれを当てはめると、電子はおよそ \(10^{-11}\) 秒で核へ落ちてしまう。現実の原子は安定で、希薄な気体は連続スペクトルではなく、リュードベリの式に従う線を出す。古典論の軌道のままでは、この二つは説明できない。

3.4 モーズリーの法則と原子番号(1913年–1914年)

モーズリーは、元素をターゲットにして特性X線を出し、ブラッグ反射で波長を測った。\(K\) 系列では、振動数 \(\nu\) の平方根が原子量ではなく、整数 \(Z\) について直線になった。

\[\sqrt{\nu} = a(Z – b)\]

したがって \(\nu\) は \((Z – b)^2\) に比例する。\(K\) 系列では遮蔽の定数 \(b\) はおよそ1なので、\(Z\) が大きいところでは \(Z^2\) に近くなる。

この整数 \(Z\) は、核の正電荷を素電荷で数えたものである。周期表を並べる指標は原子量から、この原子番号へ移った。テルルは \(Z = 52\)、ヨウ素は \(Z = 53\) である。平均の原子量がこの順と逆なのは、同位体の組成が質量の平均をずらすためだと、のちに分かった。陽子という粒子の名が付くのは1920年なので、1913年に確定したのは核電荷という整数である。

欠番に今の元素名が付いたのは、それぞれの発見のときである。モーズリーが1913年の論文で空けたのは43、61、75で、測定の中心はアルミニウムから金までだった。72は、希土類の番号の割り当てを正したうえで欠番になった。ハフニウム(72)は1923年、レニウム(75)は1925年、テクネチウム(43)は1937年、プロメチウム(61)は1945年に同定されている。

周期表はこれで、核電荷 \(Z\) を番号とする離散的な表へ整理された。なぜその \(Z\) で化学的性質が周期になるかは、まだ残っている。

4. ボーアの公準と、それを巡る実験(1913年–1923年)

4.1 ボーアの三つの仮定(1913年)

ボーアは、ラザフォードの模型が古典論のままでは崩壊することを避けるため、1913年に三つの仮定を置いた。

第一に、原子の中の電子には、電磁波を出さずに安定していられる状態がある。定常状態と呼ぶ。

第二に、その軌道の角運動量は、換算プランク定数 \(\hbar = h/2\pi\) の整数倍に限られる。

\[L = m_e vr = n\hbar = n\frac{h}{2\pi} \qquad (n = 1, 2, 3, \ldots)\]

第三に、定常状態のあいだを移るときだけ、差に等しいエネルギーをもつ光が出る。\(E_n > E_m\) なら、

\[\Delta E = E_n – E_m = h\nu\]

である。逆向きの遷移では、同じエネルギーの光が吸収される。

クーロン力を向心力として、この条件の下で軌道を解くと、半径とエネルギーは次のようになる。

\[r_n = \frac{4\pi\varepsilon_0\hbar^2}{m_e e^2}\, n^2 = a_0 n^2, \qquad a_0 \approx 0.529\,\text{Å}\]
\[E_n = -\frac{m_e e^4}{32\pi^2\varepsilon_0^2\hbar^2}\frac{1}{n^2} = -\frac{R_\infty hc}{n^2} \approx -\frac{13.6\,\mathrm{eV}}{n^2}\]

バルマーやリュードベリがスペクトルから決めていた定数が、電子の質量、電荷、光速、プランク定数で書けるようになった。上の式は核の質量を無限大と見たもので、出てくるのは \(R_\infty\) である。水素の線と直接比べるときは、電子質量 \(m_e\) を陽子との換算質量に置き換える。その定数 \(R_H\) は \(R_\infty\) より約0.05%小さい。基底状態の束縛エネルギーは、どちらで計算しても約 13.6 eV になる。

4.2 フランク=ヘルツの実験(1914年)

フランクとヘルツは、水銀の薄い蒸気に電子を加速して入射し、電流を測った。加速電圧を上げていくと電流は増えるが、4.9 V、9.8 V、14.7 V と、4.9 V ごとのところで急に落ちた。電子のエネルギーが 4.9 eV に足りないあいだは、衝突でエネルギーをほとんど失わない。4.9 eV に達すると、その分を水銀原子に渡して遅くなる。水銀からは 253.7 nm の紫外線が出る。この波長は約 4.89 eV に相当し、電流が落ちる 4.9 V と同じ遷移を指している。

\[\frac{hc}{253.7\,\mathrm{nm}} \approx 4.89\,\mathrm{eV}\]

このデータから、原子の内部エネルギーには決まった差があることが分かる。1914年の論文で、フランクとヘルツ自身は 4.9 V をイオン化の電圧だと考えていた。基底状態から励起状態への遷移だ、という読みはボーアの理論の側から入り、本人たちがそれを受け入れたのは数年後である。

4.3 ゾンマーフェルトの微細構造(1916年)

ゾンマーフェルトは1916年、円軌道を楕円に広げ、形を決める量子数 \(k\) を導入した。\(k\) は 1 から \(n\) までをとり、後の方位量子数 \(l\) とは \(k = l + 1\) の関係にある。速い電子に特殊相対論を入れると、同じ \(n\) の中に細かいエネルギー差、微細構造が出る。

この計算で、電荷と \(\hbar\) と光速からなる無次元の数

\[\alpha = \frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0\hbar c}\]

が現れた。1916年に使われた値はおよそ \(1/137\) で、今日の測定値は \(1/137.036\) である。上の書き方は、今日のSIでの定義である。

旧量子論のこの公式は、水素の微細構造の測定とよく合った。同じエネルギー差は、のちのディラック方程式からも出る。実験に合った式が、楕円軌道という絵の正しさまで保証したわけではない。

4.4 シュテルン=ゲルラッハの実験(1922年)

磁場の中でスペクトル線が分かれる正常ゼーマン効果は、軌道の向きを指定する磁気量子数 \(m_l\) で説明できる。分かれ方の異常なもの、異常ゼーマン効果は、軌道の量子数だけでは足りず、後にスピンが必要になる。

1922年、シュテルンとゲルラッハは、銀の原子ビームを不均一な磁場に通した。磁気モーメントの向きがばらばらなら、検出板上の銀は連続な帯になる。結果は、上下に分かれた2本の線だった。

実験の狙いは、軌道角運動量の向きが飛び飛びかどうかを見ることだった。銀の基底状態の軌道角運動量は \(L = 0\) である。\(L = 1\) なら成分は3本になる。観測された2本は、電子スピンの \(m_s = \pm 1/2\) に対応する。スピンが提案されるのは1925年なので、1922年の報告では、この結果は軌道の空間量子化の証拠として受け取られた。

4.5 コンプトン効果(1923年)

コンプトンは1923年、X線を物質に当て、散乱されたX線の波長が散乱角 \(\theta\) とともに伸びることを測った。古典的な波が電子を揺らしても、散乱光の波長は入射光と同じままである。観測されたずれは、エネルギー \(h\nu\)、運動量 \(h/\lambda\) の光量子が電子と衝突する、と考えると説明できる。

\[\Delta\lambda = \frac{h}{m_e c}(1 – \cos\theta)\]

光電効果が示していた光の粒子性を、衝突の運動学でもう一度確認した実験である。

5. 排他律と周期表(1924年–1925年)

ボーアの模型は水素のスペクトルをよく説明した。電子が複数ある原子、つまり周期表の本体は、まだ説明できない。すべての電子が一番低い \(n = 1\) へ落ちてしまわないのはなぜか。第1周期が2、第2周期が8、第3周期が8、第4周期が18で折り返すのはなぜか。

ボーアは1920年代はじめに、スペクトルを見ながら電子を内側から順に埋めていく構成原理を提案した。殻がなぜそれで閉じるかは、力学の原理からは出ていなかった。

5.1 ストーナーの規則(1924年)

ストーナーはX線の吸収スペクトルを調べ、主量子数 \(n\) と方位量子数 \(l\) で指定される副殻に入る電子の最大数が、\(2(2l+1)\) に等しいと指摘した。

  • \(l = 0\)(s)は \(2(2\cdot 0 + 1) = 2\)
  • \(l = 1\)(p)は \(2(2\cdot 1 + 1) = 6\)
  • \(l = 2\)(d)は \(2(2\cdot 2 + 1) = 10\)
  • \(l = 3\)(f)は \(2(2\cdot 3 + 1) = 14\)

5.2 パウリの排他律(1925年)

パウリは1925年1月、ストーナーの規則と異常ゼーマン効果の整理を一つの原理にまとめた。一つの原子の中で、四つの量子数 \((n, l, m_l, m_s)\) がすべて同じ状態に、電子は二つ入れない。

1925年1月の時点で、パウリは第四の量子数をスピンとは呼ばず、古典力学では書けない二値性(Zweideutigkeit)とした。\(m_s = \pm 1/2\) という書き方は、その二値性を後の記号で表したものである。同じ年の秋、ゴーズミットとウーレンベックが、この二値性を電子の固有角運動量、スピンとして描いた。

この規則から、主量子数 \(n\) の殻に入る状態の数は次のように数えることができる。

\[\sum_{l=0}^{n-1} 2(2l+1) = 2n^2\]
  • \(n = 1\) では \(2\cdot 1^2 = 2\)
  • \(n = 2\) では \(2\cdot 2^2 = 8\)
  • \(n = 3\) では \(2\cdot 3^2 = 18\)
  • \(n = 4\) では \(2\cdot 4^2 = 32\)

これは殻に入る席の数であって、周期表の行の長さそのものではない。行の長さは、第1周期が2、第2周期が8、第3周期が8、第4周期が18、第5周期が18、第6周期が32である。第3周期が18にならないのは、3d より 4s のエネルギーが低く、3d の10個は第4周期の側で埋まるからである。このエネルギー順は排他律の数え上げだけでは出ず、多電子原子での遮蔽を考慮してはじめて決まる。

その留保を置いたうえで、化学的性質の多くは最外殻の電子の数で読める。希ガスが反応しにくいのは閉殻がエネルギー的に安定だからであり、アルカリ金属が電子を渡しやすいのは、新しい殻に s 電子が一つだけ入っているからである。メンデレーエフが表の形として見つけた繰り返しは、離散的な準位と、一つの状態を一つの電子が占めるという規則から、ここまで辿れる。行の長さには、上に書いた準位の順序がもう一つ要る。

6. 量子力学の定式化(1923年–1927年)

ボーアとゾンマーフェルトの理論は、古典的な軌道に \(\oint p\,dq = nh\) という条件を後から課すものだった。水素では成功し、ヘリウムのスペクトルでは定量的に合わなくなった。軌道に条件を足す段階は、ここで限界に来ていた。

6.1 ド・ブロイの物質波(1923年–1924年)

ド・ブロイは、光が波でありながら粒子としても振る舞うなら、電子も波としての性質をもつはずだと考え、1923年から1924年の論文と学位論文で次の関係を置いた。

\[\lambda = \frac{h}{p} = \frac{h}{mv}\]

これをボーアの円軌道に当てはめると、量子条件は「軌道の一周が、物質波の波長の整数倍である」という定在波の条件に読み替えられる。

\[2\pi r = n\lambda = n\frac{h}{p} \implies pr = n\hbar\]

これはボーアの条件の幾何学的な読み直しであり、この時点ではまだ回折の実験ではない。実験は1927年に来る。

6.2 行列力学(1925年)

ハイゼンベルクは、直接見えない軌道を理論の基礎から外し、スペクトルで測れる遷移の振動数と強度から理論を組もうとした。1925年6月、花粉症を避けるために滞在したヘルゴラント島で、物理量を複素振幅の配列として書く計算に到達した。ボルンとパスクアル・ヨルダンは、その配列が行列の積だと見抜き、ハイゼンベルクを交えた三人の論文で行列力学がまとまった。

そこで現れたのが、位置と運動量の交換関係である。

\[[\hat{x}, \hat{p}] = \hat{x}\hat{p} – \hat{p}\hat{x} = i\hbar\]

位置と運動量は、同時に普通の数としては決まらない。古典力学のポアソン括弧を、この交換関係へ対応させる、というのがディラックの見方でもあった。

6.3 波動力学(1926年)

シュレーディンガーは、ド・ブロイの波をハミルトン=ヤコビの理論と結び、電子を偏微分方程式で書いた。

時間に依存する方程式は

\[i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\Psi(\mathbf{r}, t) = \left(-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2 + V(\mathbf{r}, t)\right)\Psi(\mathbf{r}, t)\]

ポテンシャルが時間によらないときは、\(\Psi(\mathbf{r}, t) = \psi(\mathbf{r})\, e^{-iEt/\hbar}\) と変数分離でき、

\[\left(-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2 + V(\mathbf{r})\right)\psi(\mathbf{r}) = E\psi(\mathbf{r})\]

になる。クーロンポテンシャル \(V(r) = -e^2/(4\pi\varepsilon_0 r)\) の下で、無限遠で波動関数が消えるという境界条件を課すと、解が存在するのは特定の \(E\) だけになる。主量子数 \(n\)、方位量子数 \(l\)、磁気量子数 \(m_l\) は、その境界条件から出てくる。解の角度部分は球面調和関数、動径部分はラゲールの陪多項式で書ける。

同じ1926年、シュレーディンガーは行列力学と波動力学が同じ内容をもつことを示した。エッカートも、独立に同値を証明している。ヒルベルト空間の上で量子力学を整理したのはフォン・ノイマンで、その著作がまとまるのは1932年である。

6.4 ボルンの確率解釈(1926年)

シュレーディンガーは、波動関数を電子の電荷が空間に広がった密度だと考えようとした。波束は時間がたつと広がるので、電子の電荷がそのまま雲として残る、という絵は維持できない。

ボルンは散乱の計算から、波動関数そのものを実在の雲ではなく、確率振幅と読む解釈を出した。位置 \(\mathbf{r}\) の付近の微小体積に粒子が見つかる確率は、絶対値の二乗で与えられる。

\[P(\mathbf{r}, t)\, d^3r = \lvert\Psi(\mathbf{r}, t)\rvert^2\, d^3r\]

この解釈では、測定の結果は波動関数から確率として予言される。1927年以降、コペンハーゲンを中心に、古典論のような軌道を微視的な記述の基本に置かない理解が広がった。

6.5 不確定性関係(1927年)

ハイゼンベルクは1927年、位置と運動量のような対を、同時にいくらでも精度よくは定められないと論じた。論文で書いた関係は、積がプランク定数の桁になる、というものだった。

\[\Delta x\, \Delta p \sim h\]

下限を \(\hbar/2\) に決めたのは、同じ年のケナードである。標準偏差で書いた不等式

\[\Delta x\, \Delta p \ge \frac{\hbar}{2}\]

は、交換関係 \([\hat{x}, \hat{p}] = i\hbar\) から証明できる、今日の標準的な形である。

エネルギーと時間についても、似た形

\[\Delta E\, \Delta t \gtrsim \frac{\hbar}{2}\]

が語られることが多い。時間は位置や運動量のような演算子ではなく、この関係は \([x, p]\) から同じ手順では出てこない。意味も、状態の寿命とエネルギーの幅、というように場面ごとに指定する必要がある。

ハイゼンベルクが挙げたガンマ線顕微鏡は、測定を想像した思考実験である。

7. 電子回折(1927年)

1927年、ド・ブロイの関係はスペクトルの解釈を通じてではなく、電子線そのものの回折として測られた。

7.1 デイヴィソン=ガーマーの実験

デイヴィソンとガーマーは、ニッケルに低速の電子を当て、散乱の強度を角度ごとに測った。装置の事故のあと試料を加熱したところ、細かい多結晶が大きな単結晶に変わり、回折に特有の鋭い山が見えるようになった。

加速電圧 54 V のとき、入射方向から測った散乱角 \(50^\circ\) に強度の山が出た。入射ビームを結晶面に垂直に取るとき、この散乱角に対応するブラッグ角は

\[\phi = 90^\circ – \frac{50^\circ}{2} = 65^\circ\]

である。ニッケルの面間隔 \(d = 0.091\,\mathrm{nm}\) をブラッグの条件に入れると、

\[\lambda = 2d\sin\phi = 2\times 0.091\,\mathrm{nm}\times\sin 65^\circ \approx 0.165\,\mathrm{nm}\]

一方、加速電圧 \(V\) で電子の物質波の波長を計算すると、

\[\lambda = \frac{h}{\sqrt{2 m_e e V}}\]

\(V = 54\,\mathrm{V}\) では \(\lambda \approx 0.167\,\mathrm{nm}\) になる。回折から出した 0.165 nm との差は約1%である。結晶の内部では電子の感じる電位のため波長が真空中と少し違い、この比較にはその補正を入れていない。その範囲では、二つの波長はよく合っている。

質量と電荷をもつ電子が、X線と同じ形の回折条件に従った、というのがこの実験の要点である。

7.2 G. P. トムソンの実験

J. J. トムソンの息子、G. P. トムソンはアバディーンで、速い電子を金や白金などの多結晶薄膜に通し、写真乾板にデバイ=シェラーの同心円を写した。多結晶からの回折環である。

父の J. J. トムソンは、気体放電の研究で1906年にノーベル物理学賞を受けた。この仕事には、陰極線を粒子として測った実験が含まれる。息子は電子の回折により、1937年にデイヴィソンと共同で同じ賞を受けた。

8. ディラック方程式と陽電子(1928年–1932年)

シュレーディンガー方程式は時間について1階、空間について2階なので、特殊相対論のローレンツ変換と釣り合いが悪い。ディラックは1928年、時間と空間の両方について1階の方程式

\[(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu – mc)\psi = 0\]

を提出した。\(\gamma^\mu\) は \(4\times 4\) の行列である。この形から、電子のスピン \(\hbar/2\) と、磁気回転比 \(g = 2\) が出てくる。パウリが二値性として置いたものが、相対論的な波動方程式の側から現れる。

同じ方程式は、負のエネルギー

\[E = -\sqrt{p^2 c^2 + m^2 c^4}\]

をもつ解を必ず伴う。ディラックがこれを空孔として解釈したのは1930年で、そのときは穴を陽子だと考えた。質量が電子と合わないため、1931年に、電子と同じ質量で正の電荷をもつ反電子を予言している。

1932年、アンダーソンは磁場をかけた霧箱で宇宙線を観測し、電子と同じ程度の比電荷をもち、曲がり方が電子と逆の飛跡を見つけた。陽電子と名付けられた。1931年の予言が、別の実験で粒子として見えたことになる。

9. 年表

年 できごと 置かれた仮定や理論 測定で分かったこと 周期表との関係
1869 メンデレーエフの周期表 性質は原子量とともに周期的に変わる、という経験則 ガリウム、スカンジウム、ゲルマニウムの発見 経験的な表ができた
1897 電子(J. J. トムソン) 原子は共通の負の粒子を含む 陰極線の偏向と比電荷。1897年の見積もりは質量が水素の約千分の一 原子の内部を問う実験が始まった
1900 プランクの \(E = nh\nu\) 振動子のエネルギーは飛び飛び 黒体放射のスペクトルを一つの式で再現 エネルギーの離散という考えが入った
1905 光量子 光は \(E = h\nu\) の粒としても振る舞う 光電効果で、振動数は電子のエネルギーを、強度は個数を決める 光の粒子性が理論に入った
1911 原子核(ラザフォード) 正電荷と質量は中心に集中する \(\alpha\) 粒子の大角散乱。戻りが約1/8000というのは1909年の反射の計数 一様な正電荷の模型が捨てられ、古典軌道は不安定になる
1913–14 モーズリーの法則 \(\sqrt{\nu} = a(Z-b)\) 特性X線の波長。欠番は当初 43、61、75 表の順番は原子番号 \(Z\)
1913 ボーアの公準 定常状態、角運動量の量子化、振動数条件 水素の線スペクトル。導かれるのは \(R_\infty\) 水素の安定とスペクトルが計算できるようになった
1914 フランク=ヘルツ 原子のエネルギー差は決まった値をとる 水銀で 4.9 V ごとに電流が落ち、253.7 nm の光が出る 離散準位を電子衝突で見た。励起という解釈は後から入った
1922 シュテルン=ゲルラッハ 磁気モーメントの向きは連続ではない 不均一磁場で銀ビームが2本に分かれる 当時は軌道の空間量子化とされた。2本の正体はスピン
1923 コンプトン効果 光量子は運動量 \(h/\lambda\) をもつ 散乱X線の波長のずれ \(\Delta\lambda = (h/m_e c)(1-\cos\theta)\) 光の粒子性を衝突で確認した
1924 物質波 \(\lambda = h/p\) この年は理論。回折は1927年 ボーアの条件を定在波として読み直した
1925 排他律 同じ四つの量子数に電子は一つ 多電子スペクトルとストーナーの \(2(2l+1)\) 殻の席は \(2n^2\)。行の長さはエネルギー順と合わせて決まる
1925 行列力学 \([\hat{x},\hat{p}] = i\hbar\) 遷移の振動数と強度を直接の対象にした 軌道を前提にしない形式が始まった
1926 波動力学 \(\hat{H}\psi = E\psi\) 水素の固有値と固有関数 量子数が境界条件から出る。行列力学との同値はシュレーディンガーとエッカート
1926 確率解釈 確率は \(\lvert\psi\rvert^2\) 散乱の計算と整合する 波動関数を電荷の雲と見る読みは維持できない
1927 不確定性関係 1927年の形は \(\Delta x\,\Delta p \sim h\)。\(\hbar/2\) はケナード ガンマ線顕微鏡は思考実験 古典的な軌道を、微視的記述の基本に置けなくなった
1927 電子回折 ド・ブロイ波は回折する デイヴィソン=ガーマー(0.165 nm と 0.167 nm)、G. P. トムソンの回折環 電子の波動性を図形として見た
1928–32 ディラック方程式と陽電子 1928年に相対論的方程式、スピンと \(g = 2\)、負エネルギー解。反電子の予言は1931年 アンダーソンが1932年に陽電子を観測 スピンが方程式の帰結になり、反粒子へつながった

メンデレーエフの表は、原子量と化学的性質の規則から作られた。その行の長さと空席の意味が分かるまでには、核電荷、定常状態、排他律、そして多電子原子での準位の順序が必要だった。殻に入る数 \(2n^2\) は量子数の数え上げから出る。第3周期が8で止まり、第4周期が18になることは、4s と 3d のどちらが低いかまで含めてはじめて説明される。

式が実験の数字と合うことも、一度にすべてが済んだわけではない。フランクとヘルツは自分の 4.9 V を当初イオン化だと思っていたし、シュテルンとゲルラッハの2本線がスピンだと分かったのは実験の後である。デイヴィソン=ガーマーの波長も、補正なしの比較で約1%の差を残す。周期表から量子力学までの道は、仮定を置き、それがどの測定とどの桁で合うかを見て、仮定の方を直していく過程だった。