ランダムネスとは計算資源であり、既約表現とはランダムネスである。人類はランダムネスのことをシンプルと呼んでいる。
ランダムネスは計算資源であり、既約表現はランダムネスである。これ以上短い記号へ落とせないものは、整数系に対する素数性を持っている。素数配置問題には規則はない(ように見える)。
奇妙なことに、人類はこのランダムネス——既約表現——を「シンプル」と呼ぶ。短い式、削ぎ落とされた画面、素数のように割り切れない一点。だがシンプルに見えるものほど、次の類似数がいつ現れるかを短い法則に閉じ込められず、注意と証明の労力を吸い続ける。素数の並び、より大きな素数の発見に世界中の数学者が何世代も釘付けになり、abc予想がなお未解決であること自体が、ランダムネスが資源であることの社会的な証だ。Andrey Nikolaevich Kolmogorov(アンドレイ・コルモゴロフ、1903–1987)から量子対話証明へ至り、abc予想とロバスト軌道問題を経て p進数などの概念がランダムネス=リソースの表現として進化してきた。
ランダムネスの系譜
一九六〇年代、Andrey Nikolaevich Kolmogorov(アンドレイ・コルモゴロフ、1903–1987)、Ray Solomonoff(レイ・ソロモノフ、1926–2009)、Gregory J. Chaitin(グレゴリー・チャイティン、1947–)は、対象を出す最短プログラムの長さを情報量の候補にした。記述が対象そのものとほとんど同じ長さなら、それ以上圧縮できない。既約の整数的な測り方である。
一九六六年、Per Martin-Löf(ペール・マルティン=レーフ、1942–)は別の角度から入った。実効的に書ける統計的検定をすべて通る列を、ランダムと呼ぶ。片方が有限の圧縮不能を測り、片方が無限列の典型性を測る。どちらも、規則へ回収できないことを乱数の側に置いている。
同じ頃、地球外知的生命の探索は、宇宙の雑音の海から短い法則で説明できる構造——パルスや帯域や反復——を探す手続になった。圧縮可能な例外=信号と見做した。生命や知性の候補は、しばしば「シンプルに聞こえる規則」として現れる。雑音と信号の切り分けはランダムかそうでないかの判定に使うことができる。
乱数は「起きることの記述」から「手続の内部で燃やすビット」へ移る。John von Neumann(ジョン・フォン・ノイマン、1903–1957)と Stanisław Ulam(スタニスワフ・ウラム、1909–1984)のモンテカルロから、確率的多項式時間による複雑性の記述により、コンピューターを発明した。
Hardness versus Randomness の系譜は、さらに一段深い。Noam Nisan(ノアム・ニサン、1961–)、Russell Impagliazzo(ラッセル・インパリアッツォ、1963–)、Avi Wigderson(アヴィ・ウィグダーソン、1956–)らが示したように、適切な難しさ——回路下界——があれば、真の乱数ビットを短い種から伸ばした擬似乱数で置き換え、確率的な計算を決定手続へ近づけられる。難しさと乱数は同じものではない。未踏の難しさは、現場のノードには雑音のように見えることがある。だが理論上は別物だ。人が手続として扱える乱数は、たいてい擬似乱数である。真の既約は、その外側にある。
対話型証明と確率的検査可能証明は、乱数を検証の燃料として使った。全部を読まず、乱数で数か所を刺して、正しさを確率で導き出す。量子対話型証明はその延長で、検証が届く範囲の上限を押し上げた。終「乱数が消えること」を目的とはせず、「ランダムネスそのもの=乱数でどこまで確実な検証ステップを作れるか」という観点に進んだ。
数論では、加法と乗法のあいだの大域制約としての abc予想が未解決のまま残り、素数の現れ方は短い手続に可換されない乱数とされている。計算量の側では、Peter Bürgisser(ペーター・ビュルギッサー、1962–)、Mahmut Levent Doğan(マフムト・レベント・ドアン、1996–)、Visu Makam(ヴィス・マカム)、Michael Walter(ミヒャエル・ヴァルター、1985–)、Avi Wigderson(アヴィ・ウィグダーソン、1956–)が扱うトーラス作用に対するロバスト軌道問題が、ある近似では困難性を示し、別の領域では数論の仮説——論文が abc予想の一バージョンと呼ぶもの——に効率が依存する。
既約と素数、局所と大域のずれを語るために、数論は p進数、さらには a-adic や ℓ-adic といった概念を整理していく。——これが、ランダムネスが資源と呼ばれるようになるまでの系譜である。
既約は乱数であり、人はそれをシンプルと呼ぶ
ランダムネスは計算資源である。乱数ビットは時間や空間と並んで消費される。脱ランダム化は、その燃料を擬似乱数や回路の下界の仮定のもとで決定手続へ回収しようとする試みだ。資源である以上、希少で、配分され、食い潰される。
既約表現はランダムネスである。整数で言えば、既約数の反対は合成数である。掛け算へ分解できるものは、合成数である。真の乱数は、頭の中のモデルに梱包できず、頭の外にしか存在できない。頭の中に回収できた瞬間、既約は崩れ、種と手続のある擬似乱数となる。組織が指標にして再現しようとする乱数は、たいてい擬似乱数である。
整数系において、素数の族は、擬似乱数と呼ばれる現象を抱え込む候補である。各点が既約かどうかは速く判定できる。だが点がいつ、どの間隔で並ぶかという現れは、短い種と手続に閉じない。人が触れて使える「乱数っぽさ」は、素数性と置き換えるとわかりやすい。整数に似ているが整数とは違うもの、一定のルールはあるが、そのルールがほとんど規則的で内容に感じるもの、しかしながら人間にとって、整数との比較で素数はわかりやすく、因数分解は誰でも習っている。
社会における経路依存も、同じメタファーと言える。歴史という種から伸びた軌道は、完全な真乱数ではない。再現可能で、手続として使えるほど規則的だが、一発で短い法則へ因数分解されてはいない。ちょうど良い擬似乱数である。言い換えれば、暗号解読に相当する規則性がまだ見つかっていないあいだの停留だ。制度や慣習や市場の型が「当たり前」に見えるのは、その停留のあいだだけである。解読された瞬間、経路は合成数側へ落ち、別の軌道が始まる。経路依存を運命と呼ぶ必要はない。未解読の擬似乱数である。
人類はその乱数を、シンプルと呼ぶ。短い式、素数、一日で書き直された画面——表層。語る余白がないから、簡単に聞こえる。だがシンプルは易しさ、安さではなく、シンプルさは計算資源である。資源であることから、周辺の質量を動かすことができるのがシンプリシティなのである。説明がこれ以上出てこないことへの、日常語での命名が「シンプル」である。このランダムネスは次の既約数がどこに出るかはパターン化を拒み、計算資源を要求し続ける。真似できると思い込む罠は、この呼び方の錯覚から生まれる。雑音の海から短く聞こえる信号を狩るように、人はシンプルに見える既約を成功と呼ぶ。成功とは他人よりも比較優位に長いランダムネスの記述のことである。
素数かどうかは速く判定できる。だが素数がいつ、どの間隔で現れるかを短い式で記述する手続は、いまも発見されていない。abc予想は未解決であるが、未解決であるabc予想を、ロバスト軌道の一部に変換するという「リソース」として活用する。P進数も素数の配列を資源として活用する。素数の出現が数学的に完全な乱数と決まったわけではないが、言えるのは、局所の既約判定は軽く、大域の現れは重い、という非対称が顕著であり、誰の目にも「わかりやすい」のである。
乱数は、すでに社会の資源として働いている。素数の分布や abc予想、間隔の統計、仮説に依存する軌道近似に、世界中の数学者の注意と時間が吸い寄せられてきた。ランダムネスは重力とも言える。シンプルに見える点が、人類の計算資源を集める。注目が集まらない対象は資源ではない。注目が尽きない対象は、擬似乱数へ変換しきれない既約性を持つ。数学者たちの持続的な注視は、ランダムネスが資源であることの社会的な証だ。

