ラグジュアリーとサンクチュアリーの違い

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ラグジュアリーとサンクチュアリーの違い

Diorのオートクチュール(Haute Couture)や、Loro PianaのRecord Bale(世界最高のウール生地)は、「Sanctuary(聖域)」を感じるプロダクトである。そのようなプロダクトには神性を感じるものである。それは閉鎖的であるようにみえながら、求める権利のあるものに対しては誰にでも提供される。

世界中を旅する自由な時間と金を持つ個人が最後に行きつき、通う場所という定義にも当てはまる。

例えば、グローバルアプリで、iPhoneやMicrosoft Excelなども最後に使い続けるという要素はあるものの神性を感じることはない。データセンターのような土地、半導体というマテリアルがあるし、手でも触れられるにも関わらず、聖域性が低く感じてしまうのはなぜなのか。

ITプロダクトはよく設計された便利なウィークリーマンションのように感じてしまう。エクセルは存在において根本的な欠陥を持っているがゆえに人間に寄生して意図もなく機能的に繁栄するという意味で、人間のタンパク質構造を生かして反映するウイルスのような性質を持つ。

ウイルスに生命性や神が宿っているという感覚はない。人間の体は死後も呼吸をしているかのような錯覚を得る神聖さをもつ。しかし死後の体は器であって、生きている体とは全く違う。目の前にある皮膚、筋肉、臓器は数時間前に呼吸をしていた時のままである。意識は呼吸しているのだが、心肺停止してから火葬するまでの間は、体がついてこないように見える。

機能としての体は、最後に血が巡り、心臓が脈拍し、呼吸が開始されることによって神聖さを取り戻す。体が火葬されてしまうのは機能だけでは人々は器の神聖さよりも利便性や経済性を優先してしまうからである。神聖さとは、利便性や経済性を超えて保存される必然性のことを言う。三重の伊勢神宮は周囲の地価が上がっていないため、保存されている神聖さはまだ試されていないものである。

一方で、東京のど真ん中にありながら、数兆円の価値をもちながらも手付かずのまま残されている皇居の森林にはチャレンジされ尽くした神聖さがある。

神聖さは必ずしも歴史的、文化的儀式の中にあるわけでもない。儀式とは形式を踏襲することではない。サンクチュアリ性というのは重力的現象が起きる空間であり、たとえ一泊100万円支払ってもかならずリターンが来るような返報性がある。驚き、意外性、奇跡性がないと、人は神聖さを感じないのである。皇居を保存することによって、皇居エリアを民間に開放して数兆円のキャピタルゲインを得るよりも返報性が高いと無意識に判断されていると言うことになる。

🌌 サンクチュアリ性との関係

サンクチュアリ的空間(聖域)とは、生命を模した整合存在である。それは地理的に閉じているように見えて、構造的に宇宙に接続され、開かれている。それは外界から隔絶していながら、風・光・意識・祈りを透過させる。所有権は私有でありながら、意味的には私有ではなく、宇宙との呼吸を保つ。

だから、サンクチュアリ的な場所やプロダクトは「支払った価値が還ってくる」=「循環が成立する」サンクチュアリとは、閉じた形式の繰り返しによる慣習ではなく、呼吸する閉鎖構造(Breathing Closure)なのである。