新規事業は最初から結末が決まっている|美味しいところだけ上手に捌いておこぼれで天下を取るのが勝者の定石

新規事業を始める人たちは独特の高揚感と熱狂、没入で始まるだろう。新規事業は20年経たないとしっかりした成人にはならないものの、3年目くらいまででほとんどの運命が経路依存性で確定してしまい、よほどの強い力が働かない限り矯正されなくなる。これは三つ子の魂百までの人間と同じである。人間が労働により稼ぎ、自分の生活を自分で完結させて余剰資金ができ始めるのも成人前後からであるが、事業も20年かかると考えた方が良い。
一方、人間でも幼稚園に上がる3歳くらいではずいぶん性格がはっきりしてきて、集団の中に入った時にムードメイカーなのか、引っ込み思案なのか、あとは集団の中でのポジショニングや喜怒哀楽の反応パターンなど、3-6歳を並べてみると想像以上に異なる。
企業も同じで、スタートしてから3年の事業だとしても、その構成員の顔ぶれを見ることで、その先10年から20年かけてどのような事業に終着するかはかなり早い時期に確定しているのである。
それに気づかず、急成長を目指していたり、急成長したはいいが赤字体質から抜けられなかったりという「惜しい」会社は無数にある。しかし、「惜しい」は経営において禁句である。大学に合格するか落ちるかの二択で、落ちた人たちのエピソードには誰も興味を持たない(落ちる理由はさまざまだが)のと同様。赤字企業、倒産企業、衰退企業のエピソードには誰も興味を持たないのだ。
履歴書で落ちた資格を羅列している人はいないだろう。合格した資格を保有している。それはつまり、試験を受けただけで落ちた資格には誰も興味がないからだ。経営も全く一緒で、20年かけて育てた事業だとしても、最後に数百億円以上の売上になっていなかったら意味がないのだ。さらにいうと会社だけ大きくなって、役員の給与が増えておらず、個人の人生が豊かになっていないようであれば、それも無駄だったことになる。それなら最初から大手企業に入って年功序列で退職金をもらった方が良かったのではないかという話になる。
つまり、新規事業は勝つか負けるかの2択で、勝てるのは10万人に1人、負ける人は99,999人の戦いであるが、負ける人たちは負けることに対する思い入れが強すぎる。負ける理由には興味はない。「ものはいい」「技術はある」「お客さんに喜ばれている」「売れ行きが良い」色々あるものの、結局純利益と資本収益のスプレッドが取れていなければさまざまな「証拠」が負けた証拠になるのである。
そしてこれはたった3年目くらいで20年後の結末があらわになっていることが多い。3年目くらいでブランドを中核とした垂直統合モデルで、プライシングパワーとバイイングパワーを持ち、BtoBとBtoCの顧客基盤を日本だけでなくグローバルで持っている会社は、まだまだ資金需要があるが成長余地は大きい。営業利益のスプレッドと、資本収益のスプレッドが規模の経済により拡張していく。逆に、3年目くらいでサプライチェーンからバリューチェンまで、調達、生産、販売のあらゆる業務プロセスをデジタル化し、交渉権を持つという思想を持たずして、どこかの部分を一つでも外注しようとすると、スケールにはすぐに限界が来る。資本投下によりスケールはできるが最後の最後でマージンが確保できないので行き詰まるのだ。
一方どこかで大手企業のサプライヤーに収まりたいというゴールを無意識に持っている新規事業は多い。このような新規事業は「惜しい」だけで終わる一方で、垂直統合プレイヤーにとってはアービトラージの構造的オポチュニティである。
インテルは2000年代には最強のプレイヤーの一角であったが、BtoBtoCのプライシングパワーを構造的に維持できなかったため、構造的に優位なプレイヤーに時間をかけて負けるしかなかった。SAPやオラクルも最終消費者を掴んでいない以上、時間をかけて同様の道を辿るだろう。
落ちていく不完全なエネルギー体に巻き込まれてはいけない。しかし、リワードは常にリスクと等価である。リスクの振幅の中で、自分が必ずアービトラージする領域の限界条件を提示することで、いいものと悪いものの併せ持ったふぐのような魚を、毒のある肝を上手に取り除いて美味しく食べることができるのだ。最後のゴールが純利益計上であったとしても結局は日本一、世界一になっていなければそれは永遠の2位として負け組である。ゴールが負けている会社たちに引きづられてはいけないが、かといって、落ちていくエネルギーの中に旨みも一握り混ざっているので、全部捨てるのは勿体無い。いいものは悪いものと同時にくる。毒の部分はしっかり捌いて美味しいところだけ持っていくというのが勝者の定石である。
三すくみ、三つ巴、三角貿易
歴史的に、構造的な囚人のジレンマの停滞状況の近くに、富を集積する最大フリーキャッシュフロープレイヤーが発生する。ただし、この渦中に入ってはいけない。渦中に入るものは長い時間をかけて全員短期的な勝者かつ、長期的な廃車になってしまうのである。勝者なのか、敗者なのかわからない中空のポジショニングが実質的支配者たる位置取りである。現代に置き換えると、上場大企業も、時価総額トップ企業も、総理大臣も大統領も成功者ではない。行動の自由を実質的に制限されているものは誰であれ勝者とは言えないのである。家でテレビを見てソファに寝っ転がってテレビを見ている消費者の中に、国民主権時代の勝者が潜んでいる。