「代理購買」という用語の誤解

代理購買という用語が量販店などのアパレル業界にはあるようである。これは例えば、お母さんが中高生の子供の下着を代わりに購入することなどを指すものである。しかし、この「代理購買」という用語は厳密には間違った用法で使用されている。例えば、「子供向けの商品は大人がスーパーで「代理購買」するので、商品の見た目やスペックよりも価格が優先される」という間違った使われ方をする。経験のある人は多いと思うが、例え子供であっても、商品は確実に自分で選ぶ。
商品の売り買いにおいて、支出者と受益者が違うことはよくある。例えば企業のM&Aでバイサイドにアドバイザーがついて、ショートリストも比較条件も全てバイサイドアドバイザーが手取り足取り資料を準備して、会議も全部ファシリテーションする、そしてバイサイドアドバイザーはこう勘違いする「顧客は全て丸投げしており自分たちの言いなりである」と。しかし、実際には決済者はアウトソーサーであるアドバイザーとは桁違いの決定権限を持っている。丸投げしていると勘違いさせているだけであって、実際には全く丸投げなどしていない。支払い者というのはアウトソーサーよりも格段に強い権限を持っている。さらに支払い者よりも強い権限を持っているのが最終受益者である。会社であれば株主や消費者である。株主や消費者の総意に反するような意思決定をしている経営者(支払い者)は時間の問題でシェイクアウト(ふるいおとし)される。
例えば支払者と受益者が異なる場合がある。例えば、家の入居者がトイレが詰まって、管理会社に連絡し、管理会社がオーナーに連絡する。給排水の会社がトイレの修理をするだろう。家賃支払いの流れは入居者→オーナー→管理会社→施工会社となる。支払い者が管理会社なので、施工会社は管理会社の営業に精を出す。しかし、最終受益者は入居者なので、究極的には入居者が満足いくような施工のクオリティが必要である。(すぐまた詰まらない、そのようなリスクがあれば配管を交換するなど)
例えば、おむつでも同じである。おむつを買うのは大人であるが、はくのは赤ちゃんである。ほとんどの国産おむつメーカーは「代理購買」と勘違いしているので、大人が喜ぶキャラクターの高額ライセンスを支払う(例えばディズニーキャラクターなど)しかし一方で、需要や最終受益者の構造をしっかりと理解している最大手のパンパースは、最終受益者である赤ちゃんの利益を最大化するコスト構造をとっている。おむつの内側の手触りはどのメーカーも同じだが、パンパースだけは外側も滑らかな触り心地になっている。おむつを着用した赤ちゃんは内側だけでなく、手で外側も触るのである。外側も気持ちいおむつの方が履きたいと思うので、パンパースを選ぶ。一方、キャラクターは全く無名のよくわからないキャラクターである。(顔のゆがんだうさぎ、ぞうなどのキャラクター)赤ちゃんはキャラクターやブランドなど気にしていないので、ディズニーやしまじろうを使ったところで、着用者、受益者のメリットにならないという経験則でおそらくP&Gは新生児用のおむつに高額ライセンスのキャラクターを使用していない。受益者のメリットを最大化した結果がおむつ単体で1.5兆円の売上である。
支払い者のメリットを最大化するような戦略は、最終受益者のメリットを最大化する戦略とは圧倒的に列後する。したがって、消費者(支払者ではなく着用者)、株主のメリットを最大化するようなアクションをとっている会社はそうでない会社に対して構造的に必ず勝つことになるのである。
話を最初に戻すと、「代理購買」という需要は存在しない。代理購買と答えていれば「なるほど」と言われてそこで会話は終わるかもしれない。しかしそれは虚構に対するただの思考停止である。メーカーとして物を売るのであれば「なぜ売れるか?」という、とても簡単で、とても難しい問題に直球で答える必要があるのだ。最終受益者、着用者がなぜその商品を手に取り、喉から手が出るほど欲しいと思えるのか?その背後には商品に触れる場所、見た目、品質、機能、価格、環境配慮などのあらゆる要素が複合的に絡み合い、一貫性を持っているかどうかというプロダクトコミットメントが必ずある。
地価の高い店で手に取ることができ、見た目がよく、機能性が高く、品質が高いのに、価格が「安い」と、それは矛盾しているので、手に取った顧客はどこかに嘘があるのではないかと勘繰ってしまう。
地価の高い店で手に取ることができ、見た目がよく、機能性が高く、品質が高いのであれば、価格は「市場で一番高い」必要がある。ブランドコミットメントは好況不況に影響されないメーカーと社会との約束である。ブランドエクイティと価格には相関関係はない。ブランドエクイティと露出や認知も相関関係はない。ブランドエクイティとは投下資本に対する営業キャッシュフローイールドである。ここに「代理購買」という概念は介在しない。