君子不器|経営者は長所よりも弱点が少ないことにより勝つ|Weakest Link Theory

Weakest Link Theory
時間給ならば長所によって戦えるが、経営者は弱点がないことのほうが重要。なぜなら組織はweakest link(繋がった鎖の最も弱い部分)が脆さとなり、全体の強靭性が欠け、律速するからである。
- 時間給労働者は「長所(得意な作業)」によって価値を発揮できる。
- 一方で、**経営者**にとっては「弱点がないこと」のほうが重要である。
- なぜなら、組織全体のパフォーマンスは最も弱い部分(weakest link)によって律速されるためである。
■ なぜ経営者は「弱点のなさ」が重要なのか
- 律速理論(Bottleneck Theory / Weakest Link Theory)
- 組織の成果は、最も脆弱なプロセスや部門、人材によって制限される。
- 経営者が意思決定・資本配分・危機管理において致命的な弱点を持つと、それが即座に全体のパフォーマンスに直結する。
- 経営者の責務は”全体最適”
- 長所が尖っていても、特定領域(例:営業だけ得意、開発だけ強い)に偏ると他部門との連携や収益構造全体を壊す危険がある。
- 経営とは「最適なバランス」を生む役割であり、弱点の放置はバランス崩壊を意味する。
- 経営にとってこの全体最適の基本的なスケールとは社内や社会という部分に対する最適ではなく、地球という惑星の計算資源の全体最適である。
- レバレッジの違い
- 経営者の弱点や失敗は伝言ゲームのように、「構造」や「資源配分」レベルで全社的影響を及ぼす。よってミスのスケールが違う。
- ここは誰かに任せて良いだろうと考える部分が少しでもあると急成長するときに必ず(100%)足を引っ張られる
■ 「長所で戦える」範囲はそこまで広くない
- 長所で戦って言える人のタスクは多くの場合限定された範囲であり、評価も可視化された成果物(製造数、接客数、修理数などの単純接触効果関数)に基づく。
- 「長所」を活かした作業分担では一時的に評価が出る。しかし、これはやはり一時的なものであり、弱点を減らすことは普遍的に重要である。
- しかし、弱点を減らそうと器用貧乏になるケースがほとんどである
- したがって、目的(小さい力で大きな成果を出す)を明確にしつつ、器用になる必要がある。器用さの上位集合に、時間、資源、ゴールがあり、制約条件を所与としたトレードオフのコントロールが重要である。
なぜスタートアップが失敗するのか
なぜ新規事業が失敗するのか。それは苦手分野やリスクをこれは簡単なことだから誰でもできることだと過小評価し、誰もがたらい回しにし、もしそれが作業としては簡単であったとしても後に大きな穴となりエネルギーが漏れ出るからである。極論をいうのであれば、競争相手が大企業であれば、大企業が実施しているあらゆる分野のことを一人で理解する必要がある。原価構造を理解した後でなければコストを最適化したアウトソーシングは実現できない。
スタートアップによる製造原価の使いすぎや販管費の使いすぎはほとんどの場合、素人がプロに仕事を頼もうとするからである。プロでないと、プロを使いこなすことはできないはずである。少年野球チームが日本プロ野球の監督をできないのと同様、発注者側のコントロール能力によって受注側は制限されるのである。したがって、能力のない人に使われる人は能力が下がると言って良い。必ず相手よりもより広範囲な最適解を発見できる状態になっていないとROICを効果的に生み出すことのできる経費支出は実現できない。内製でうまくいったらアウトソースするのが基本である。ほとんどのスタートアップ経営者は、アウトソースしてから内製化しようとする、またはアウトソースのまま続けるケースで失敗する。
スタートアップにとっては従業員ですら身内と思ってはいけない。従業員はそのスタートアップの経営者を見定めに来ている品評家なのであって、身内ではなく、客人と考えた方が良いだろう。つまり、経営陣でうまく処理できていないことを、従業員に任せるべきではない。
■ 苦手分野やリスクの過小評価
新規事業が失敗する主因は「苦手分野やリスクの過小評価」である。人はよく知っていることを重要なことだと過大評価し、知らないことは重要性を過小評価する。また、よく知っているとは理解しているとイコールではない。接触回数が多かっただけであり、知っているようで無知である。
これまでの人生で接触回数が少なかった事象については「簡単だから誰でもできる」と思い込み、たらい回しにする。たらい回しにされた業務、例えば簡単なもので言えば、月次の仕訳など(これも限界利益をどのように見るかという経営視点の問題であるため、記帳代行や税理士に丸投げすることは不可能である。)
実際にはその領域が構造の穴となり、後から大きなエネルギー漏れを引き起こす。
■ 小さな仕事の放置がなぜ致命傷になるのか
- 「誰でもできる」と思い込まれている仕事は、誰もやらない
- 誰でもできると錯誤されている仕事は、責任者が曖昧になり、組織内で「見えない空白」となる。
- 結果としてその仕事は後回し、たらい回し、あるいは完全放置される。
- 「簡単な作業」≠「重要でない」
- 表面的に単純に見える業務(例:月次の仕訳業務、契約書の管理、WEBサイト運用、受発注から請求入金フローの整備)が、実は後工程に不可欠なボトルネックとなる。
- たとえ作業自体は簡単でも、それが抜け落ちたときの被害は構造的に深刻。
- 構造的漏れは「再投入エネルギー」を要求する
- 一度穴が開くと、それを塞ぐには数倍〜数十倍の労力がかかる。
- 初動で整備しておけば5分で済んだことが、事業後半で致命的トラブルとして数ヶ月の修復を要する。
- 苦手分野の「不可視性」が最大の敵
- 経営者や事業責任者が自らの不得意領域を「認知できない」ことが、問題の根本。
- 見えないリスクは管理不能 → 放置 → 時間差で問題になるが気づけない。
■ 上流工程のミスが下流工程で制御不能になる
会社が小さい時に、どんな小さな業務でも10倍、100倍になった時にボトルネックになるため、あらゆる業務をルール化、システム化するというカルチャーがあれば良いが、上流工程の設計段階のミスが下流工程では取り返しのつかないコストを発生させてしまうのと同様に、会社が小さかった時の過小評価、つまり認知の錯誤や重要性の判断ミスがのちに大きな壁として解決不可能な問題としてたちはだかってくるのである。
■ 事業の困難性は簡単な問題が広範囲に多発すること
新規事業の成長におけるボトルネックは一つの問題がとても難しいということではない。難しさは量によって発生する。各問題の一つ一つは簡単である。これが経営者が簡単だから誰かにやらせようと短絡的に考えてしまう根本要因である。しかし真の問題は一つ一つの問題の難易度ではなく、膨大な問題が同時並行で各所で増加し、バッファオーバーフローを起こしてしまうことである。積み上がった問題が各所に発生し始めると、どこに原因があったかがわからなくなってしまい、解決の糸口が掴めなくなるということなのだ。暗号化された問題について、丁寧に一つ一つ復号していくことなしに積み重なった問題は解決することができない。創業者の思いから、社史、事業構造、人事、組織の隅々までチェックしていかないと問題が解決できなくなるのである。
■ 経営は情報処理プランニングである
会社の急成長では、同時並行であらゆる部門の情報が増加する、各コンポーネントの処理性能のボトルネックを解決するためのスケジューラー、ロードバランサー、ワークロードをプランニングすることが経営なのである。
プロセッシングしようとする情報量の膨大な増加に対して、組織のたった1%の部分にでも穴があると全体の処理が進まずキュー(順番待ち)が溜まっていく。キューが溜まるということは消費者ニーズというクエリを捌けないということなので、結果として売上が増加しないということになる。たとえば1兆円クラスの大企業であっても新規事業に法務担当がつかない、税務、経理、会計、労務がいない、損害保険や退職金、生命保険の設計ができない、サイバーセキュリテイや個人情報保護法、インシデントレスポンスができない、訴訟対応ができないなど整備された大企業(競争相手)に対してひとつでもウィークポイントがあるとそこが穴となり、クリティカルなリスクとなる。営業、プロダクト開発、品質管理などは日本企業の得意分野だが、あらゆるバックオフィスは新規事業では軽視されている。
ひとつひとつは簡単(に見える)ために、各事業部責任者や役員クラスはこのような問題を役員間でたらい回しにして、「○○に任せてあるから」と口を揃えるが、任せて結果的に負けるのであれば任せた意味がなく、負けは連帯責任で、資本の少ないスタートアップは静かに退場する以外の選択肢をとれなくなる最悪の意志決定だったという結果に終わってしまう。
■ スタートアップのハードシングスは自作自演
新規事業とは「100の要素を100%で満たして初めて進行可能な、重層的・非線形な戦い」である。
一つでも0があれば、全体が0になる。そしてその0は、しばしば「簡単だからと任せたつもりになっている」穴から生まれる。持論ではあるが、新規事業にはハードシングスと言われるような困難な状況というのはそこまでないように感じる。困難性は後手後手に回ってしまう認知の甘さから生まれる自作自演である。
新規事業の失敗とは、「目の前の困難さ」ではなく、「見えない穴の放置」で起こる。
「難しくはない」ことを「大事ではない」と見なす過小評価こそが最大の敵であり、
結局それが「勝てない構造」の温床になる。
スタートアップがハードシングスだと勘違いしている経営者は自作自演、後手後手で問題を山積みする癖があるだけである。
■ 過小評価の具体例
マニュアルなんてなくても自分でできる、ルールや規格がなくても会社は回る。
確かに1人や数人のレベルはそうであるが、社会において重要なことは、たった1人が重要な発見をするよりも、発見の再現可能性なのである。
つまり、種の保存として、個々の構成員がバイオリズムを持ち、自己修復と再生産を繰り返す、種としてのホメオスタシス、オートファジー、自然治癒能力なのである。
■ 個体の能力よりもスケーラビリティ
個体の能力よりもスケーラビリティのほうが重要であり、一人一人の社員が優秀そうに見えるかどうかは経営の核心ではない。
能力主義者が誤ってしまうのは能力が高い人を雇いたいという幻想である。しかし、現実はそう甘くはない。優秀な人材がいれば解決できるような問題は存在していない。なぜなら冒頭に戻るが、問題自体の難易度は高くなく、重奏的に幾多の問題が積み重なってキャパシティオーバーになっているのが原因だからである。このキャパシティオーバーは社内における単語の使い方、語彙、指針など、コミュニケーション由来のものが大半で、誰かが新たに入れば解決するものではない。
つまり、経営における問題とは、常にいま手元にあるリソースで解決しきらなければいけないのであり、場所を変えても人を変えてもそれは単に問題を先送りしただけである。手元にあるカードで勝てるようでないと、同じ問題に出会うまでの時間を引き伸ばしたにすぎず、時限爆弾のように問題が膨らみ、さらなる解決困難性をうむのである。
■ 課題特定の失敗
・あと何ヵ月かければ黒字化する
・あと優秀な人が2人いれば回るようになる
・あと○○の資格があれば
・あと○○の能力を身につければ
など、いま持っていないリソースについて頭に浮かんでいるのであればこれは経営においてはすべて誤りである。経営はゴール、プライオリティ、アセットアロケーションに関する意志決定であり、より時間が圧縮され、情報が圧縮された上位集合の概念を選びとる作業であり、カオスのなかから再現性のある秩序だけを選びとり、習慣化する作業である。つまり、カオスの方向性に対する拡張は経営における解決手段ではない。秩序に向かう必要があるのである。(問題解決のために新たな人材をオンボーディングさせるのは新たなカオスを呼び込むだけである)
「明日は今日よりも衰える」経営を目指す
経営はより広範囲のカオスから、数理的な収束値を発見する秩序化作業である。ドーパミンやアドレナリンに頼るようなアクションよりも、「明日は今日よりも体力が落ちて弱くなる」ことを前提に制約条件を所与とした、弱くても必ず勝てる、光の通り道を地道に舗装する粘り強さが必要である。
◾️明日は今日よりも良くなるという認知バイアス
ほとんどの人は「明日は今日よりも良くなる」「時間が解決してくれる」と思い込む節がある。これは認知の誤謬である。それは昨日までの自分の選択が間違っていると思いたくないという自己暗示の現れであ理、確証バイアスの一種である。時間が経てば経つほど有利になる構造を持っている人は世の中にほとんどいないはずであるが、なぜかどこかで成長すれば今よりも有利になると思い込むのは認知の罠である。
現実には、明日は今日よりも不利になる。時間が解決するのは一握りの勝者だけであり、敗者にとって時間は敵である。貧乏暇なし、勝者は貧乏が追いつく暇を与えない。稼ぐに追いつく貧乏なしなのである。明日は今日よりも良くなるためには勝者の構造を持つ必要がある。
■ 命題の再定義:弱くなっても勝てる構造
経営において依拠すべきは、ドーパミン的高揚やアドレナリン的瞬発力や楽観主義ではなく、「明日は今日よりも衰える」ことを前提にした、時間が味方になる構造設計である。通常、誰もが時間が経つにつれて不利になる。一方つまり、弱くなっても勝てる構造(抗脆弱性)こそが本質であり、そのためには「自分以外のエネルギーの通り道」を粘り強く舗装し続ける日常の累積的行為が不可欠である。
◾️達成感の罠
達成感を探している経営者は必ず出遅れる。常に後手後手の対応に明け暮れる。一方賢明な経営者は常に社内のあらゆるところで石橋を叩く役割である。スケーラビリティに関するリスクの数理評価とストレステストこそが経営者の仕事である。一喜一憂は経営にとって甘い罠である。物語の主人公でいたいという人間の生来的な欲求は認知を歪める。
◾一喜一憂している時はすでに出遅れている
達成感を求める経営者は、なにか起こったときには対応に明け暮れる必要があるため、無意識のうちに自分でないと解決できないなにかの問題を起こそうとする。起こってしまうとその対応に明け暮れる必要があり、達成感を得られる。しかしその一方で組織全体は遅くなり、すでに負けていることに気づきにくくなってしまう。事前に予測している経営者は個々の出来事に一喜一憂している暇がない。
なにも起こっていないときに常に組織の脆弱性を探し回り、なにも起こっていないのに対策をして、なにもなかったからあの人は意味ないことをやっているんじゃないか?(あるいは気付かれもしない)というのがROIC100%を実現するための正しい経営者の姿勢のあり方である。
◾真実が機能すれば理解を求める必要はない
つねに過去から未来の極大事象を想定し、極小のリスクも見逃さず、数学的ツールの解析のように最悪のパターンが発生することを前提に行動し、鞍点が来ると方針を変えるため、ほとんどの人にとってはなぜそれに取り組んでいるのかわからない。機能するのであれば理解はいらない。理解してもらう必要もないが機能するものこそ、経営において扱うべきものである。
つまりPLOGの理念にあるとおり、このショーに参加する人はMeta-Spacetime Aged Perfectionを堪能することができるのである。
“In the grand theater of reality, the show goes on whether or not the audience fathoms the script – therein lies the profound beauty that the truth will work even if it is not understood at all.”「現実という壮大な劇場では、観客が脚本を理解するかどうかに関係なくショーは続く。その劇場では、真実が理解の限界を超えて機能することに深い美しさがある。」-TANAAKK
経営は結果がすべてであり、どんなに努力したとしてもプロセスを評価してくれる人は誰もいない。それが社会であり経済であり競争である。(表面的には慰めてくれる人はいるかもしれないが根本的な解決にはなり得ない」逆に、プロセスも理屈も知らなくても、機能するものを発見した人の周りでは、それを楽しむ人がたくさん出てくる。
先回りの経営には誰も気づけない
先回りして穴を埋めてしまう経営者は、問題が発生する前に問題を解決してしまうため、大企業では評価されづらいというこれまた認知の誤謬によるディスカウントを受けてしまう。先回りして発注者の課題を解決してしまうと、プレゼンテーション資料で問題を説明して、見積もりを出してゆっくり解決して請求する人たちがお金をもらえる一方で、何も言わずに速やかに問題発生前に解決してしまう事業者は金銭の請求すらできない。
先回りの対策は短期的には損失を生む
先回りして構造の脆弱性を塞いでしまうような性質を持つ人間は、得てして短期的には損をする。公共事業の建設はゆっくりと進めることが重要であり、早く終わらせれば終わらせるほど損をするのだ。
一方で、故事成語にもある通り、先憂後楽の姿勢をもつ人物は過去にもいたようである。
鼓腹撃壌、君子危うきに近寄らず、君子三楽など、人に先んじて憂い、報酬や快楽は周囲の人にアウトソースし、自身が達成感を得ることをゴールにしないという姿勢を表現する故事成語はある。したがって先人のなかにも真の経営を実現していた人たちがいたということだ。
また、何かするよりも、何もしないにも関わらず、物事が好転するという姿勢を解く言葉もある。
無為而治(むいにち)
「無理に干渉せずとも、自然に秩序が保たれる政治や経営」
また、教育するという働きかけによらず、教育をしないことにより、主体的に物事を好転させるという姿勢を表現する単語もある。
無為自然(むいしぜん)
「無為にして為さざるなし」
出典:『老子』第48章・第57章
- 「教えすぎない」「干渉しすぎない」ことで、自然に人が育つ。
- 「教えないことによって、人は本来の自己に従い、自律的に成長する」
- 教育せずとも、環境設計によって「教えずして教える(不教而教)」
教えずして教う(おしえずしておしう)
「真の師は、道を指し示すだけで教えず、学び手が自ら悟るように導く」
- 『荘子』では、師とは答えを教える者ではなく、問いを発生させる者とされる。
- つまり、「教育」とは枠を設けず、自己の内発的な探究を引き出すこと。
不言の教え(ふげんのおしえ)
「君子は不器(ふき)」
「教えずして民自ら化す」
- 真の君子(教育者)は、道具のように限定的でなく、環境として作用する。
- 最上の教えは、言葉や訓示ではなく、あり方・場そのものによって人を変えるという思想
先憂後楽、鼓腹撃壌の経営
先回りしてあらゆる弱点を埋めてしまうと、組織の構成員や発注者は自分たちがやったことだと勘違いしてしまうことも多々ある。しかし、それをわざわざ指摘して金銭を請求したり、相手の認知バイアスを正すのにもエネルギーが必要である。したがって、誰も気づかないとしてもあまり気にしない方がいい。
穴を塞ぐという習慣それ自体に無機質な快感を作っておけば良いだけで、それによって組織が好転した頃には何も感じない、特に達成感を感じることもなく、次の興味を探すくらいの力の抜けた姿勢の方が、最小作用原理ではないかと思う。
自然現象に一喜一憂はない、ただ作用するのみ
地球はボールが高いところから引力で落下した時に毎回そのことを楽しいと思っているだろうか?自然現象なので、必ず時間と共に発生する力学が実現しただけである。ポテンシャルエネルギーが時間の経過とともに収束し、その収束の過程に喜びを感じるというのは、どうやら生物だけが持つ快感のようである。自然現象それ自体はその喜びを持っていないということは、真に機能する経営自体も、特に嬉しい、楽しい、辛いなどの感情も情報処理のように速やかにすり抜けて、急成長それ自体が無為自然に起こるというのが正しい形であろう。
問題が発生して解決するというアニメやドラマはたくさんあるが、真の問題解決者はドラマにもならないくらいつまらないものである。誰も気づかないうちに、問題を切り刻んで、問題が発生する前に解決し、村人がそれに気づいて感謝する間も無く、また次の旅に出てしまっているという旅人が真の経営者である。その旅人が問題を解決したことに気づく人は一握りいるだろうが、大半の気づかない人は一生何も知らないまま問題が解決された村で過ごすのである。