赤字成長企業の実態収益力推測手法|SaaSにおけるGRR、NRR、GMIC、CMIC、ROIC、IRR
SaaS(Software as a Service)はインフラストラクチャを時間貸するテナントのようなビジネスモデルで、伝統的な支払い方法の中では不動産の賃貸契約や新聞のような定期購読(サブスクリプション)である。
本来的なSaaSはいつでも契約でき、月次で解約できるが、1年単位、数年単位で契約することによりDCFの観点で値引きをするという数理モデルを用いている企業も多数ある。
SaaS化するにあたっての前提条件として、既存事業におけるROIC(IRR)、グロース率を上回る必要があるというのが暗黙の条件である。つまり上場企業の平均ROICである10%を超えなければSaaSへの巨額の投資は正当化されない。
一方、成長企業は先行投資しているため赤字であることが多く、純粋なROICを純利益によって算定することは難しい。10年後にしか勝敗がわからないとなると判断を見誤るため、代替手段として幾つかの手法をTANAAKKグループでは利用している。
- ROIC (Return on Invested Capital)の代替指標
- IRR(Internal Rate of Return)
- 内部収益率、ROICは単年では赤字になるため、10年や20年という長いスパンで投下キャッシュに対するフリーキャッシュフローの経年変化を見ていく
- GMIC (Gross Margin on Invested Capital)
- ROICはNOPAT(Net Operating Profit After Tax)税引後営業利益を子数として投下資本を母数として計算されるが、Operating Profitがマイナスの時はGross Profit(売上総利益率)によって競争優位かどうかを判断する。(例えばGross Margin 40% 以上ならEBIT20%はいくだろうなど)
- CMIC (Contribution Margin on Invested Capital)
- 売上から変動費を控除した限界利益の投資に対する利回り。売上総利益が限界利益と一致しているような自動車Tier1メーカーなどは売上総利益によるリターン(GMIC)をCMICと同値として考えられるが、SaaSは本来製造原価に入れるべき変動費を販管費に計上していることも多いため、CMICを区別した方が良い
- IRR(Internal Rate of Return)
- IRRの補助指標
- IRRはフリーキャッシュフローが出るまではマイナスになるため、プラスに転ずるための補助指標として推奨されるのは以下
- GRR(Gross Retention Rate)
- 年始の既存契約が年末にどれだけ継続しているか、部分解約、全部解約などを控除したグロスの売上維持率
- NRR(Net Retention Rate)
- 既存契約の継続率(解約率)+追加契約(アップセル、新規契約)を合算したネットの売上増減(≒Revenue YoY)
- NRR はアップセル込みの保持率、GRR はアップセルを含まない「純粋な残存率」。
- GRR(Gross Retention Rate)
- IRRはフリーキャッシュフローが出るまではマイナスになるため、プラスに転ずるための補助指標として推奨されるのは以下
- 売上成長率の補助指標
- オペレーティング・レバレッジ(Operating Leverage)は、売上高の変化に対する営業利益(EBIT)の変化の感応度を表す指標
- 営業利益YoY/売上YoY
- ROICと同様に赤字企業ではオペレーティングレバレッジを計測できないため、補助的に限界利益を用いてCMレバレッジ(限界利益レバレッジ)を計測する
- 限界利益YoY/売上YoY
- オペレーティング・レバレッジ(Operating Leverage)は、売上高の変化に対する営業利益(EBIT)の変化の感応度を表す指標
🔹 NRR によるGRRの推定
以下は実際に多くのB2B SaaS企業で見られるパターン:
NRR | 推定GRR | 備考 |
---|---|---|
>200% | >98% | 伝統的なサブスクリプションである携帯電話や生命保険よりも優れたビジネスモデル |
160% | >95% | 非常に健全。エンタープライズSaaSでは標準 |
120% | >90% | 競争の激しいコンシューマーSaaS |
100%を下回る | <85% | 解約率に対して新規の獲得が追いつかない状況でNRRが前年を下回る状態 赤字でグロースさせることはできるが、収益率のターンアラウンドか継続率のターンアラウンドが必要 |
🔹 マージンと成長率の関係性
ROIC | Gross Margin | Operating Income | 備考 |
---|---|---|---|
営業利益率が高いからといってROICが高いとは限らない | 80% | >40% | ほとんどのSaaSはGross Margin 80%を主張しているがGross Margin=限界利益率だとするとSG&Aは50%に抑えられるとするため、営業利益率が40%以上ないと不自然。 |
40% | >20% | 40%の粗利益率でも十分競争優位である。ただし資本回転率が低い場合はROICが低く出てしまう。 | |
営業利益率が低いからといってROICが低いとは限らない | 20% | >10% | 競争の激しいコンシューマーSaaS |
上記のようにGross Marginだけ着目すると、ROICが低くなっていることに気づかないケースもある。重要なのは総投下資本に対して、どれだけ効率的に売上、限界利益を産んでいるかのスナップショットに加えてそれが動的に拡張しているかの成長率である。成長はオペレーティングレバレッジをモニタリングしながら行われる最適化問題である。
着目すべきはこの限界利益はどれほどの販管費によって維持できるのか。販管費が限界利益の80%必要なのであれば、販管費の30%はもしかすると変動費かもしれない。営業キャッシュフローは追加の投資キャッシュフローを使用しなくてもGRRが維持できるフリーキャッシュフローなのか?という点である。
例えば、以下のクラウド会計SaaS上場企業の決算書を比較してみる。
指標 | M社(2024年11月期) | F社(2024年6月期) |
---|---|---|
売上高 | 403億6,400万円 | 254億3,000万円 |
売上総利益率 | 約69% | 約82.7% |
販管費率 | 約89.8% | 約91.2% |
売上成長率(前年比) | 約33% | 約32.3% |
総資産 | 約843億1,200万円 | 約1,000億円(推定) |
総資産回転率 | 約0.48回 | 約0.25回(推定) |
純利益率 | 約-15.7% | 約-39.9% |
クラウド会計はスイッチングコストは高いものの、コンペティティブなマーケットである。このような競争の激しい領域で売上総利益率は40%を維持できれば良い方であり、両者ともにとても高い売上総利益率を計上しているが、これは売上総利益率=限界利益率にはなっておらず、実は変動費がかなりの部分、販管費率に入ってしまっているのではないかと推測される。
次年度の売上について、前年度で前払いをしていると考えれば、成長率を割引したのが本来の売上総利益率と純利益率ではないか。その場合修正すると純利益はプラスになるものの、ROICはかなり低いということになり、競争を勝ち抜いた後にやっと評価が確定したとしても及第点という危うい状況である。
指標 | M社(2024年11月期) | F社(2024年6月期) |
---|---|---|
売上高 | 403億6,400万円 | 254億3,000万円 |
売上総利益率 | 約69% | 約82.7% |
販管費率 | 約89.8% | 約91.2% |
売上成長率(NRR YoY) | 約33% | 約32.3% |
総資産 | 約843億1,200万円 | 約1,000億円(推定) |
総資産回転率 | 約0.48回 | 約0.25回(推定) |
純利益率 | 約-15.7% | 約-39.9% |
推定限界利益率(GMIC=CMIC) | 34.6% | |
推定販管費率 | 17.3% | |
推定営業利益率 | -15.7+33=17.3% | -39.9+32.3=-7.6% |
推定税引後純利益率 | 17.3*0.65=11.1% | |
ROIC | 0.48*11.1%=5.3% | |
IRR | 現時点のビジネスモデルではキャピタルゲインを除くインカムゲインでは総投下資本に対してマイナスIRRになってしまう | 同左 |
F社は推定純利益率がプラスにならなかったため、計算していないが、M社よりは資本回転率が低く限界利益率も低いはずであるということは言える。
M社の現在のROIC実力は5.3%であり、これはディベロッパーやイオンモールなどのROICと近い。(不動産利回りの2倍くらい)
キャピタルゲインによるリターンは無視するべき
本当の金持ちになりたいのであれば、キャピタルゲインは無視すべきである。キャピタルゲインは過度に他者依存になってしまうインジケーターである。インカムゲインは反対に自己で完全にコントロールできるインジケーターである。
インカムゲインによるイールド、利回りは、地球の富の増分を享受するという自然現象である。農地のように計画的に作物が得られるというのが事業の基本である。事業を健全に運営するためには税引後のネットインカムが増えているかどうか。減損テスト終了後の純資産が一株あたりの純資産(BPS)、一株あたりのFCF(フリーキャッシュフロー)において着実に伸びているか。この点をゴールとして、さまざまな複雑性に惑わされず、明確にポジショニングを確定し、勝利の条件を決定し、選び取る必要がある。
M社は勝ち残った場合のROICが5.3%というのが現時点での成績である。このROICは将来勝ち残ることにより上がる可能性もあるが、企業にはモーメンタム、慣性があるため、抜本的な経営改革、原価低減活動をすることなしにROICが上がることはないだろう。このまま行くと、勝ち残ったとしても、キャピタルゲインは実現したがインカムゲインでは失格の成績となる。仮に今後ROICが10%を超える場合は上場企業上位半分、20%で上位10%、30%で世界Top10、100%で世界1,2位であるが、その道のりはかなり遠いので、競争に一生懸命になっているうちに差は開く一方であるという深刻な状況である。
しかし、そもそも「勝ち残った場合に好条件が得られる」ようでは不確実な要素が多すぎて、開始時点では勝利が確定していない。このように勝利が確定していない状況で拡大するのはMargin of Safetyがないとして、TANAAKKグループでは認められない投資である。
割引現在価値におけるわらしべ長者方式
TANAAKKグループで認められる投資は、開始時点から勝利が確定している投資である。勝つかどうかが曖昧な投資は許容されない。つまり、他者が持っていない構造と視野による当然の配当を得ているだけなのである。10年〜50年、10億円〜100億円、ROIC30%以上100%目標という長期ビュー、資本規模、極めて高い投資収益目標を持っていないことから生じる資本と時間の「アービトラージ」のみをTANAAKKでは扱っている。勝率が100%の事業しか運営しない。つまり、勝率が不明な投資は実行しない。つまり、単年フリーキャッシュフローがマイナスになっているように見えたとしても、割引現在価値の観点ではTANAAKKグループのあらゆる支出はわらしべ長者方式になっているということである。キャッシュを失うことは例え1円であっても許されていない。
例えばクラウド会計SaaSは見た目はテクノロジー企業であるが、その収益力の実態は不動産業に近いので、この時代に改めて資本を集めて投資する意義があるのかどうか?意義が薄いのであれば市場で最も優秀な社員にトップの給与を支払うことはできないのではないか?ということである。そうすると、低収益率の急成長事業は世間では勝ち組のように見えて、時間をかけて負けるための時間稼ぎをしているにすぎないということになる。20年経過後に世界首位になっていないのであれば、2位以降は全て負けであると、極論だが考えている。特に2位というのは永遠に勝つことのできない最大の敗者である。
このように、赤字計上している企業が本来どの程度のROICを持ち、どのようなイベントが起きた場合に勝ち残り、最終成績としてのIRRが算出されるかという点についての推測方法を持っていると、赤字企業の買収金額や最適な資本政策を最適化問題としてパラメータ化し、再現性を持って投資収益を確保することができる。