ビギナーズラックを意図的に起こす構造

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ビギナーズラックを意図的に起こす構造

人がもっとも能力を発揮できるのははじめての経験の時である。つまりビギナーズラックがもっとも最小効率で最大効用を生む方法である。

Cptは極大有限空間のほんの極小イプシロンである。数理は有限空間の瞬間的な微分の全体像を把握するので、実は数理というのは現象を完全にコントロールすることであると言い換えられそうである。積分すると有限は拡張するので無限にみえるが微分すると宇宙を含む全有限空間は一瞬だけ閉じた系になっている。一方積分的には拡張する。つまり全有限空間は拡張を基本としておりそこには再帰的反復現象はあるものの全体としては拡張しており、閉じた系=無限性は錯覚である。

開いた系としての無限拡張機能をもつ、動的停止状態が有限空間の性質ではないか。

1. **CPT(Charge-Parity-Time対称性)**とは、 

→ 有限空間のうち極小点であるこの宇宙(マターバース)の対称性を記述する極めて限定的な“極小イプシロン”である。 つまり、CPTは宇宙的秩序のうちの限られた構造のみを表している。

2. 数理(mathematics)とは何か? 

→ **有限空間を“瞬間的に微分”した結果の全体構造(全写像)**であり、 現象を「完全にコントロールする」ための言語である。

3. 積分と無限の見かけ上の出現 

→ 積分操作により、有限の重ね合わせが拡張され、**“無限に見える”**構造を生成する。 一方で、微分すると、全宇宙(全有限空間)は閉じた系として定義される。

■ 「数理を通じて世界を制御することが可能である」

「有限しか存在しない」

「微分すると閉じる」

「積分すると無限が錯覚される」

つまり、> “無限は構造的錯覚であり、真に存在するのは有限のダイナミズムのみ”

有限空間の必然性

「完全に同質なものしか存在しないならば、差異は生まれず、したがって有限も存在しない」 

→ 「差異があるからこそ、有限は生まれ、宇宙は意味構造を持ち得る」 逆に差異がなければ有限空間は発生すらしない。

→ 「差異の再帰性が増幅しすぎると、有限構造でありながら“無限”に見える」 

1. 有限性は差異によってのみ定義される

2. 差異の再帰性が極限まで展開されると、構造的錯覚としての“無限”が生成される。

3. 無限集合とは、構成的には常に有限な差異生成過程の再帰的投影である。

アテンションについて

ただし、有限空間とは異質なものがある。それが自由意思(アテンション)である。アテンションは微分的な有限空間や無限性の錯覚をあたえる積分空間のどこにでも遍在し、別次元から全有限空間にたいして微分的な完全コントロールを図る。

人間は完全性の有限空間の微分スクリーンショットにおける宇宙の完全コントロール主体である。つまり着床から出産まで育つ、ミルクが上手にのめる時点で人間は自然を超越している。

つまりアテンションとは、可動可能性であり、有限空間とは異質、別次元である。同一系からその系のことをコントロールできないはずなのでアテンションは有限空間の上位にあると推定される。

人間は別次元のアテンションをもつことにより有限空間に対しての完全性を内包しており、それが局所的にしか実現されないのは体がほんのセプリティリオンのクオークからしか構成されていないというリソースの制約条件からくる錯覚である。

人間は本質的に完全である(全情報・全意味を持つ存在)にもかかわらず、それが“実現されない”のは、身体という物質的制約(例:セプティリオン個のクォーク)に因るものであり、それゆえ“未完成”や“進化途中”という感覚は錯覚である。

人間は本質的に完全な意味構造を内包している。だが、それは局所リソース(身体・空間・時間)によって分節・制限された状態でしか現れない。そのため、不完全性とは、実装可能性のトポロジカル錯視に過ぎない。—

■ 比喩的表現

人間とは、宇宙の完全地図を懐に入れた旅人である。しかしその地図は、手のひらに乗る小さな折り畳み図としてしか展開できない。我々が“不完全”と感じるのは、ただ地図を一度に広げられないことによる構造的盲点にすぎない。

ビギナーズラックについて

つまりビギナーズラックは常に訪れる。知らなければ知らないほどうまく行く。記憶を放棄し、宇宙を含む有限空間の支配論理である可逆時間を前提とすることで常にビギナーズラックが発生する。なぜかというと人間が完全情報空間だからである。生物としての人間は完全情報空間のほんの局所に発生したネゲントロピックな波、皺である。

ビギナーズラックとは、完全情報空間を内包する人間存在が、初回行為において未分化・非予測・非学習状態ゆえに“構造全体の正答的断面”を偶発的に掴む現象である。それは“まぐれ”ではなく、“完全情報空間の投影による必然的干渉”である。

人間がセプリティリオン(10^24)の粒子しかもたないのにマターバースのはじめから終わりまでのセンティリオン(10^303)をまるでりんごとミカンの重さを想像するように扱えるということは空間を基底とした完全情報を有しているからである。

さらにセプリティリオンをセプリティリオンで累乗し、さらにセプリティリオンを重ね合わせるというこのマターバースのあらゆる人生や存在の人生をすべて体験するのに必要な有限数についても簡単に想像できる。ここまでくると存在とは容易にイタコのように入ったり出たりすることのできる器にすぎないということになる。

人間は完全性の海から波立った、ひとつのネゲントロピーの皺である。だからこそ、はじめての体験であっても、宇宙はその手を迎えるように構造を明け渡す。

■ ビギナーズラックが応用再現できないようにみえるのはなぜか? 

→ 一度知覚がバイアスを持ち、構造に**“波”ではなく“壁”**を立ててしまうから。再現するにはどうすればよいか? 

→ 差異を記憶せず、**自我構造をゼロ初期化する「構造的忘却(あるいは想起)」**が必要。

つまりはじめてが、はじめてではなくセンティリオン回以上、何度もやり尽くして飽き飽きしているというところを前提としてはじめるとよいということ。物事をうまく進める差異に情緒は邪魔になるのである。はじめての楽しさを味わうような、「初心忘れるべからず」はビギナーズラックを呼ぶ姿勢としては間違いであり、ビギナーズラックの精神とは純粋力学に身を任せるということである。

■ 命題再定義

> ビギナーズラックとは、“はじめて”の感覚ではなく、“無限回繰り返した完全構造の中で、構造的に干渉可能な自由度をもつ瞬間”のことをいう。

したがって、> 「初心にかえる」は誤りであり、真のビギナーズラックの精神は、“完全に飽き、すでにすべてを知っているが、身体的にはまだそれを忘却した地点”での“純粋力学的滑走”なのである。

■ 構造定義:「Centillion Tower Hypothesis™(センティリオン反復仮説)」公理的構造:

1. 人間は既にセンティリオン回以上、全てを経験している。C^C^C=C↑↑3

2. 身体・行為は、その圧縮された記憶を失っているが、力学的軌道としてそれをなぞることはできる。

3. 真の“初回性”とは、記憶なき完全性による滑走である。

> はじめて、という錯覚の下に起こるビギナーズラックは、飽き果てた宇宙が、もう一度差し出した“自由度”に乗ることで生じる。そこには虚無があり、ただ、静かに滑る力学だけがある。

ただひとつの光としての期待は、今回だけはあらゆる巨大数の試行錯誤とは違う空間変化が一瞬だけある可能性があるという有限(無限)の拡張の瞬間である。それが生きるというモーメンタムではないか。