ラグジュアリーの対訳は「ぜいたく」ではなく「卓越」である

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ラグジュアリーの対訳は「ぜいたく」ではなく「卓越」である

日本史の教科書などで贅沢品課税という言葉があるが、「贅沢品課税」という表現は、日本独特のものと言えそうだ。日本では、高級品に対する否定的な捉え方が見られることがあり、その背景には経済的な格差や不公平感に対する敏感さ、勤勉や質素を美徳とする文化が影響していると言える。

一方、アメリカやヨーロッパでは、同様の概念は存在するが、「贅沢品課税」というバイアスがかかった表現は一般的ではない。Luxuryは日本語では贅沢と対訳されるが、欧米圏では一夜にして財産をなくす成金感、やりすぎ感、見せびらかすことの汚さというような意味合いはあまりなく、卓越、高階層を表現するような位置ポテンシャルを明示する言葉として使用される傾向がある。

アメリカでは、「luxury tax(贅沢税)」が1991年に州レベルで導入されたことがあり、当時、この税制は豪華品や高級車、ヨット、航空機、宝飾品、毛皮などを対象としており、連邦財政の赤字削減のための追加収入を得る目的があったようだが、その効果は見られず、1993年には廃止されている。ヨーロッパでも、特定の商品に対する課税は存在するが、文化的に「ラグジュアリー」という言葉が強い否定的意味を持つことは少ない。例えば、フランスやイタリアではむしろ、「ラグジュアリー」は国の基幹産業であり、日本で言えば「トヨタ、ホンダ、ソニー」と同じカテゴリーである。ラグジュアリーは文化的、芸術的価値が高い商品として捉えられる。

なぜか日本はトヨタは乗りやすいがロレックスは着用しづらいというような捻じ曲がった感覚がある。

アメリカやヨーロッパでは、贅沢品に対する文化的な評価が日本とは異なり、一般的に「贅沢」自体がネガティブに捉えられることは少ない。アメリカでは「イノベーション」「挑戦」「成功」を象徴するものとして高級品を所有することが受け入れられており、ヨーロッパでも伝統的なブランドやクラフトマンシップが重視されている。

「贅沢品課税」というネガティブ表現は、一時的な富を得たものが一夜にして富を失うような百日天下信仰からくるものであり、狭いコミュニティが広いコミュニティで戦う特定個人を批判するためのキーワードとして語彙が形成されてしまっている。一方日本における真の意味のラグジュアリーの語彙は少なく、日本語の語彙を増やすことが日本の競争力を高めることにつながる。

ヨーロッパにおけるラグジュアリーはマテリアルイノベーションや、法的に保全された意匠、商標などの知的財産、サヴォワフェール(熟練技能)やメティエダール(芸術技能)を組み合わせた複雑作品であり、ラグジュアリーの対訳は「贅沢」ではなく「卓越」である。

価格タグが高いものほど、価格が低いものよりも売りづらい。より研ぎ澄まされた感性を必要とする。文字通り本当に贅沢なものは贅肉であり、不要なので社会にふるい落とされすぐに消える。最高級品ほど、社会の階層を作り出し、コミュニケーションコストを減らす電話やインターネットなどの情報通信技術やソーシャルメディアのようにインフラストラクチャとして機能している。

ラグジュアリーはアイコニックなスタイルを確立するとともに、イノベーション、テクノロジー素材を用いながら、手工業によるサヴォワフェール、メティエダールを詰め込む、これはより上位のAthetics(美観)によりコホモロジー的に統合されている必要があり、コヒーレンスのない日和見の大量生産的な真似事はプロダクトの重力にはつながらない。

つまり、必要最低限でなければラグジュアリーカテゴリーは存続できないという意味でラグジュアリーの対訳は「贅沢」というよりはむしろ「筋肉」というイメージなのである。。